えん

ある人がああいえば、だれかがああいう。君はそう思って私はこう思う。それを伝え合う。一つの事柄に賛成も反対もたくさん意見がある。それでいいじゃないか。むしろそうじゃないと怖い、みんな同じ意見なんてありえないしなんとなくこわい。正々堂々とぶつかりあって、けつろんがでなくたって、いいじゃないか。ああいえばこういう。赤があれば青があって紫ができて実は黄色があって〇□△があって平面だったり立体だったりわけわかんないカラフルで形のない世界が広がっていればいい。私が〇と言ったらほかのだれかが◇という。そうして、誰も一人では作れないダイナミックななにかがきっと立ち現れてくれる。んじゃないかって、思った。

幸せ進行中

「ノスタルジーに中指たててファンタジーをはじめただけさ」

私は、ずっとノスタルジーに浸っていた。思春期はもっと子供のころを想って本気で涙を流していたし、高校や大学でも結局はまだ傷一つついてないころの自分を神聖視している節があったのだ。気持ち悪い。そんなんじゃ息の仕方を忘れるのも当然の成り行きじゃないか。楽だ。たぶん楽だからそうしていたんだ。わざと自分の首をしめて苦しい苦しいってあがいているのが健康的に努力するより楽だったんだと思う。あの頃はなぜか、自分は苦しまなければならないものとでも思っていた。悲劇のヒロインになりたい人とは私のことをいうのかもしれないが、私は演じている自分が嫌いだ。演じたくて演じてるわけじゃない。助けてつって誰も来なくても平気さ。 私は平気じゃない。強くなりたい。だけどもうつかれた。全部どうでもいい。どうとでもなれ。と思ってはいった大学である人たちと出会った。はじめは彼らのやさしさに驚かされることばかりだった。キラキラした目、悩んでいる姿、まっとうな怒り、温かさ。なにより今を生きている感じがした。嫉妬することもあった。だけどいままでみたことない人たちに囲まれているうち、少しずつ少しずつ心の氷が溶けていったんだと思う。古傷を肯定できそうになっていた。

ある時気づいた。この人たちのために自分を大切にしないといけないなって。以前から自分のこと大切にしようとしていたけど、難しかった。もうやめた、という意識に反して自分の体や無意識は生きたいと強く思っていて、そのはざまでわけわからくなってたのに気づいてちゃんとやろうと思っていたけどずっとさみしくて一人ではどうしようもなかった。

人のこと心配する人の気持ちがわかるようでわからなかったけれど、目の前で見続けて自分も心配されて、それは社交辞令とかいい人のポーズとってるんじゃなかった。

おこがましいことだけど、この人たちを守りたいと思った。助けられてるのは私のほうだった。強くなりたいとおもった。

ファンタジーを実現できるということを、私にはできなくても彼らとなら現実味のある、嘘のないファンタジーを実現させられるかもしれない。そのためならわたしはそこから身を引いたっていい。それでこの世にファンタジーが降り立ってくれるなら。

移り変わる感性1/6・コミュニケーション

「つまらない、なんかおもしろいことないかなー」と自分がいう日がくるとは子供のころ思ってなかった。だけど気づいたら、何もかもつまらなかった。繁華街はつまらない、商品が小ぎれいに並べてあるデパートはもっとつまらない。PARCOが大きな口を開けて人々を閉じ込めていく。中学時代は通ってたのに、もうわざわざ行こうと思わない。

空を見ても海を見てももう何とも思わなくなった。自動車の音を聞いて夜安心さえする。

なんかもう全部つまらないときがある。当たり障りない話ばっか、深い話だってした気になってるだけで全然その人のこと知れない。物足りない。触ったって境界線は消えない。溶けたってたぶんどうにもならない。

 

人とのコミュニケーションの取り方について考察できるようになりたい。って近頃思っている。

1/6、1/11

この体から抜け出したいと思っていた。だけど、精神的な世界だって、私たちはそこに閉じ込められているんじゃないか、、?

膜が張られている。目に見えない、私たちを狭い空間に閉じ込める膜が常に私の周りに存在しているんじゃないか、なんてよくわからないことを考えて、結局考えきれずに時空のかなたに消えていく。あーあ。どんなに広い場所にいたって息苦しく、狭苦しく感じ、そういう時に体から抜け出したくなる。夢の中みたいに軽くなって浮遊したい。

1/11追記ぜっんぜんはかない気持ちじゃない。爆発しそうなきもち。私に怪獣ののどがあればビルを壊すくらい大声で叫んでいると思う(笑)体に抱えきれないくらいのよくわかんない気持ち。悲しくて切なくてどうかするとむかむか、怒りになる。

 

散歩したとき、夕方、外の世界は青っぽく薄暗かった。そんな道を歩いていると異世界にいる気分になった。

私が何を考えようと感じようと、それは全部意識の中で起きていることに過ぎない。

 

1/11追記私たちを閉じ込めるのは自分の意識だけじゃない、この世界にあるものすべてじゃないのか。駅もデパートもそこらじゅうのわけわからん情報も、私を閉じ込めようとする。だけどやっぱり人間って過去の上の、自分が生きてる時代で、その社会の規範に従ったりして生きてくもんなんじゃなかったか。反抗してる人だって過去の経緯を踏んで反抗してるはずだし、それならカウンターカルチャー?っていう人たちも大きな歴史、自分が立ってる時代に、(言い方がみつからないけど)ある意味従っている。

 

1/11追記

わかった気になっていたと気づいても今度はまた、自分は分かった気になっていたが本当は何もわかっていないという考えに閉じ込められるかもしれないじゃないか。とよく私は思ってしまうけど、思うにあまりできた意見じゃない。考えるっていうのはテキトーにあれやこれや関連付けることじゃない。最終的にこうなるはずだから…とか結論ありきじゃいいものはできない。私が思うまともな人って、みんな自分の足で現時点の自分の立ち位置から一歩ずつ地道に進んだ結果として出来上がった、目の前のことを精一杯やっているうちにいつのまにか練り上げられた主張をしている、ようにみえる。絶対最初から見えてるゴール通りになってない。今、今の一秒先に全力を注いでいて、ずっと先の未来のこと、するつもりない転職だとか受験とか夢の結婚生活とか、ばっかり考えてたりしてないと思う。何言いたかったんだっけ。