1.神様に会いたかったから、ある意見を押し通してきた。神様に会うとはつまり、直かん=思考、直感が冴え渡っている状態。そのためには常に考え、思考を研ぎ澄ませ最大限深いところまで考え、それを身体にしみこませないといけない。
ライブの神様に従うっていうのは、思考が最高潮に達した結果、感覚的に最善解がわかるってことだろう。
だからうまい人の話は言語化すればよく筋が通っているし、哲学にときたま神聖なかんじ、芸術、スピっぽいところがあらわれるのは良質な思考や感覚、(五感からの情報処理の速さが大切だよな~)を通して、神さまとでもいいたくなるような世界に触れるからだと思う。あるアーティストのインタビュー動画が好きだ、直かん的な(=論理的)な感覚の、“実践“。失敗しつつも芸術的。憧れる人生の歩み方。
技のない絵に価値はあるか、論理不透明の意見に価値はあるか。
心のままが表われているならイエスだろう。感情(心?本能?)はたぶん絶対的なイエスじゃなきゃいけない。犯罪はだめだけど。
2.人生って石の彫刻みたいにとりかえしのつかないものだと思ってた。あるいは木の幹か根みたいに可そ性がある。時間は戻らないし。
だから、傷は傷として一生残る、絵についた汚れはそのままとれない。
だから、その傷をどうやって愛するか肯定できるかが課題で、むずかしかった。美しく思えないそれを、どう納得して美しくするか。のみこむしかなく、暗示をかけたづけるしかないのか。(ここで救われたのが、金継ぎの美学。壊れることでより美しくなる。それはたしかにわかる。挫折は大切。壊れたからこそ見えた景色がある。あと、じゃない方の未来なんてたとえAIでも想像不可能。)
最近やっと、たしかに時間は一方的で人生にかそ性はあるが、石の彫刻よりもっとやわらかいもののように思えてきた。ミスだと思っていたことも傷だと思っていたことも、より長く大きな目でみれば、その後の人生のじかんというキャンバス上では、その一部として味として、いつのまにか良い効果を生む可能性が大いにあるし、
傷をもって進む以上、生命はその未来にすすむ。意図をこえて。たぶん。飛べない鳥がペンギンになったみたいに。視力低下した私が多少見えなくても困らなくなったみたいに。
こんなこと、若いからいえることだろうか。